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この世の中に純粋なものなんて何もない

スティーブン・バーンステイン『Diaspora Soul』

恩田晃

スティーブン・バーンスタインの『ディアスポラ・ソウル』は、緩やかなアフロ・キューバンのリズムにクレズマーのメロディーをねっとりと絡ませた不思議なアルバムだ。曲によっては管楽器を増やしてニューオーリンズ風のブラスバンドっぽいアレンジにしたり、もろエディ・パルミエリだったり。でも、イカレポンチのスティーブンがやっているだけあって、そんな説明など何の意味もなさず、なんとも名づけようのないヌメヌメ音楽に成り果てている。このアルバムについて話を聞こうとローワー・イースト・サイドの本屋で待ちあわせるが、奴は1時間近くも遅れてくる。

「どうしていつも遅れるわけ? スティーブン、もしかしてカルフォルニア育ち?」
「そうだけど…。なんとか遅刻しないように努力してるんだけど、ダメだなあ」
「時間がないからさっさとインタビューを始めるよ。聞きたいことが山程あるんだから(ポケットからカセット・レコーダーを取り出す)」
「おっ、ローテクだねえ、そのカセット! ところでさ、今度お前が東京に帰る時にポータブルのレコード・プレーヤー買って来てくれない? ブルーの玩具みたいなやつでケニー(セックス・モブのドラム奏者)が持ってるんだ」
「そんな話は後にしてくれる? まず質問に答えてから。あなたの生活はどれぐらいユダヤ人の風習に関わっていますか?」
「のっけから真面目なのが来たな。そうだなあ、今日はハニカ(12月にあるユダヤの祭日)だし、子供達のためにキャンドルをともして…。でも、俺はまったく宗教にはまったく関心がないし、かなり懐疑的だね。とは言っても、俺のパーソナリティーはそうとうユダヤ人ぽいよ。民族的アイデンティティーの問題ではなく、ユダヤ人的な視点で世界を観ているということだ。だから俺のつくる音楽はすべてジューイッシュ音楽だと言える」
「だからクレズマーに、ニューオーリンズと、ラテン・ミュージックと、その他諸々を混ぜ合わせても、あくまでジューイッシュ音楽だと」
「だって、ユダヤ人が小さなゲットーに隔離されて住んでいたのは昔の話だぜ。ゲットーの生活も音楽も現代の社会に統合されたんだ。例えば、ジャズを演奏するのも一緒だよ。なんで60年代に演奏されていたビバップをいまさら同じように演奏しなきゃならないんだ? なんでクレズマーを100年前と同じように演奏しなきゃならないんだ? オリジナルなクレズマーと呼ばれているものだって、いくつかの音楽スタイルを掛け合わせてできあがってたものだ。それに俺が他の音楽を掛け合わせたからって、なにが悪い? この世の中に純粋なものなんて何もない。すべては影響しあって成り立っている」
「いい言葉だねえ。クソ真面目な顔して伝統音楽の大切さを説く輩に聞かせてやりたいね」
「この間、お前が俺の家に来た時に、変態音楽のレコード・コレクションを見て『どうしてこんなのばっかり聴いてるの?』って言ったよな。俺にとっては変態じみた音楽だって世界を映す鏡のひとつだ。世界は気狂いじみてるし、それをただ悪いと決めつけてもしょうがないだろ。そういえば、先週の月曜に出たウォール・ストリート・ジャーナルで、2000年のトップテン・アルバムに『ディアスポラ・ソウル』が選ばれてたんだ。奇妙だと思わないか? ウォール・ストリート・ジャーナルなんて最も右翼的な新聞だぜ。おまけに『ディアスポラ・ソウル』がリリースされたのは1999年で2000年じゃない。でも、俺はたとえ奇妙でもこれが現実だと思うね」

スティーブン・バーンスタインの音楽が面白いのはなにをやってもその音楽が置かれるべきコンテキストから勝手にずれてしまうことだ。『ディアスポラ・ソウル』のアルバムはツァディックのラディカル・ジューイッシュ・シリーズからリリースされたし、このバンドはセックス・モブのように定期的に人前で演奏している訳ではなく、ジューイッシュ音楽のフェスティバルに参加する時にだけメンバーが集まる。だけど、彼の音楽はそんな政治的な意図をどこかはぐらかしてしまう。意味の重さに囚われることは決してない。いろんな音楽が混在するアメリカで育ち、ジューイッシュ音楽以外の音楽を主に学んできたスティーブンみたいな奴が、自然につくれる音楽とはこういうものではないだろうか。むしろ、現実に即した音楽という意味合いでは「スティーブン・バーンスタインこそがジューイッシュ音楽のラディカルな探究者だ」なんて、笑いながら言ってみてもいいかも知れない。本人も「俺がかい?」と、腹を抱えて笑い出すだろう。

ジューイッシュ音楽、ジャズにかぎらず、どんな音楽でもそうだが、スタイルとしてあまりにも固着していくと、クリティカルな能力をまったく欠いた暴君のような音楽と化す。そして、そういう現実世界を見失った音楽を信奉する輩ほど、大義名分に盲従して、自分をシリアスにを見せたがるようだ。音楽を音楽として解き放つためには、少しばかりいい加減のほうがいいのかも知れない。スティーブンのように??

『アンボス・ムンドス』(2000年7月発行)掲載


Last updated: September 17, 2002