『花』は私達にとってのラブ・バラードです。クラブ・ユーズの音楽には愛がないのが、つらくて、つらくて…。宇宙感、恍惚感はあっても愛がすくないので『花』をつくりました。(ASA-CHANG)------- 別にクラブ・ユーズの音楽にかぎらずとも、愛の欠如は今日の音楽全般における病理であり、疾病であり、くそったれである。それ故に、去年、ASA-CHANG & 巡礼が世に問うたアルバム『花』は特別な感動をわたしに与えてくれた。優れた音楽というものは往々にしてそうであるが、くだらない理屈なぞ忘れさせてしまう強烈なオーラに包み込まれているものである。分水嶺を越えたところにパッとひろがる世界は、なんともことばでは形容しがたいのだが、愛に溢れていて、アナーキーで、わたしにはドン・チェリーのそれを想わせた。電子の音楽、世界中なんでもありトラッド、へなちょこ歌謡、トランス・タブラ・ヘヴィネス、音楽的なスタイルは天衣無縫でありながら、なにをやっても歌になっているのが素晴らしいな、と。
だいたい、このひとたちの<巡礼>とは、チベットの荒涼とした砂利道を五体投地でムカデのように這っていく苦行のイメージからはほど遠い、袈裟を着て杖を手に山奥の寺院を巡り歩くお遍路さんともなにか違う、都会の何処にでもある路地を曲がったところに、なんだかわけのわからない小宇宙がパッ開けていて、そこにスッと入っていってしまう感じなのだ。ところで、あなたは巡礼トロニクスというものをご存じだろうか? これは、このひとたちが演奏する電子仕掛けのサウンドシステムなのだが、見た目はキッチュなタイム・マシーンのようである。あんなのに乗ってサッと出掛けていってしまうのだ、あちら側の世界、破天荒な夢にも似た巡礼へと。
で、新しいアルバム『つぎねぷ』である。このひとたちの面白いところは、たとえあちら側の世界に出掛けていってしまったとしても、この俗世間にかならず戻ってくることだ。いい意味で俗っぽいのである。名曲「花」は「あたらしい花」としてレイ・ハラカミの手によって生まれ変わり、とてもポップに、時代の装いを身にまとう。曲の冒頭で聞こえる街の雑踏のノイズによって、あなたはこのひとたちが現世を廻る新たな巡礼にでたことを知るのである。強烈な願いとして存在していた「花」は、今ここに在るあなたの生活のなかで「あたらしい花」として咲き誇ろうと。しかし、このアルバム、どの曲も諧謔とユーモアに溢れ、七転八倒つぎねぷ地獄である。しかもポーズは一切なし、まったくもって天然である。
結局のところ、このひとたちにとっての<巡礼>とは、音楽に対する求道的な姿勢そのものではあるまいか。ブルーの熊ちゃん、ああ見えて真剣なのである。かわいさいっぱいに真剣そのものなのである。たとえそれが世俗的な愛と欲望と笑いに満ちた素頓狂な巡礼であったとしても、音楽を極めるための道であることにかわりはない。ひたすら時代とともに巡礼しつづけるのみである、グルグルと、本物の愛と音楽を求めて。
『スタジオ・ボイス』2002年9月号掲載