今年の2月、ニューヨークに滞在していた時に、イクエさんから1冊の本をもらった。「こんな本が出たわよ。アキさん、興味あるんじゃない?」と。『ARCANA』。ものすごくおもしろくて、しばらくの間はいつも持ち歩いて、暇さえあれば読み耽っていた。
『ARCANA』は、評論家ではなく、音楽家がみずからの音楽、またはみずからの音楽に関係のある事柄について書き記した文章を、ジョン・ゾーンが編集したものだ。アンソニー・コールマン、ビル・フリーゼル、イクエ・モリ、ピーター・ガーランド、マーク・リボーなど、長年に渡ってジョン・ゾーンとともに活動してきた30人の音楽家達が寄稿している。
いったいこの本のどこがそんなにおもしろいのか? それは、音楽家と音楽のかかわりを、音楽家の視点から知ることができることだ。そんなものは、雑誌のインタビュー、評論、ライナーノーツなど、音楽を扱うメディアが発信する情報からいくらでも知ることができるとあなたは思うかもしれないが、実際はそうではない。わたし自身が音楽家として活動していてひしひしと感じるのだが、現状のメディアにおける情報の伝達形態(音楽家→メディア→聴き手にいたる一方通行)では、音楽をつくる上での方法論、それに、いつ、どこで、なにをしたかなど、具体的な情報を提示できるだけで、音楽家達が音楽をつくりだす瞬間にどのような化学変化が渦巻いているかは、決して語られることはない。音楽的なエネルギーの動きにはあまりクロスしていないのだ。もちろん、音楽家が音楽を生みだす行為に没頭している最中は、かなりnon-verbal な無意識の領域ですべてが進んでいくので、言語化するのが難しいということもある。でも、それ以上にメディアがパッケージ化、商品化された音楽形態以外は売り物にならないということで、音楽的なエネルギーを切り捨ててきたことが問題なのではないだろうか。(これはメディアだけが悪いということではない、音楽家や聴き手も間違いなくこの状況に加担している)
そんなことからいうと、わたしにとっては、理路整然と自らの音楽理論を展開するデビット・シェー、マーク・ドレッサーらのような人達より、音楽と社会の関係性を明示し、そのなかで "サバイバル" していくことをカム・アウトしたマイク・パットン、エイヴァン・カン、ボブ・オスタータグらのような人達の文章の方が興味深かったし、この本ならではという気がした。
よく知られているように、ジョン・ゾーンは、音楽ジャーナリズムの音楽に対する不当な扱い(パッケージ化、商品化を前提とした情報操作)を疑問視する立場から、10年以上に渡り音楽批評との接触を断ってきた。そのことはこの本の前書きでも繰り返し語られているし、これまでよっぽど評論家に叩かれてきたのだろう、彼の文章からは、音楽ジャーナリズムに対する鋭い分析以上に激しい恨みつらみがストレートに伝わってくる。『ARCANA』は、彼の音楽ジャーナリズム、特に評論家連中に対する当てつけでもあるだろう。
でも、これは<音楽家 VS 評論家>の果たしあい以上に、「音楽とはなにか?」という古典的な命題に真っ向から取り組んだとてもラブリーな本だ。現在の音楽状況において、ジョン・ゾーンがこの本を世に問うことの意味ははかり知れない。
『ミュゼ』Vol. 25(2000年5月発行)掲載