Interview & Text by 畠中実 (ICC)
『エヴリデイズ』は、アラン・リクトと恩田晃のふたりによる初のコラボレーション・アルバムである。そこでは、カセットテープやギターといった、ふたりがそれぞれ持つ手法によって日々行なわれた演奏が、再構成され新たな作品へと昇華し、タイトルが示唆する、音楽家あるいは生活者としての日常の堆積から生まれた、音楽的、映像的インスピレーションにあふれた音の織物として結実している。現在ニューヨークを拠点に活動するふたりの「毎日」はどこから始まったのか。これらの音が醸し出す感情はどこからやってくるのか。彼らの「毎日」には、何が見え、何が聴こえているのか。この「新しい音楽」が生まれた背景について、メール・インタヴューを行なった。
畠中実 『Everydays』はふたりのコラボレーションによる初めての作品になりますが、制作はどのようにして始まったのですか。また、録音にいたる経緯はどのようなものだったのでしょうか。
アラン・リクト 以前、わたしはニューヨークのクラブ、トニックでブッキングの仕事をしていました。2001年だったか、アキがそこで演奏する時にサウンドチェックの時間をメールで知らせると、「あなたが『The Evan Dando Of Noise』(1997年、Corpus Hermeticum)を作ったアラン・リクト?」と返事がきた。
恩田晃 アランの音楽はよく知っていて、特に90年代半ばに録音されたアルバム『The Evan Dando Of Noise』が好きだったんです。メールのやりとりの後、彼はわたしのコンサートを聴きに来て、その後はどちらからともなく一緒に演奏しようか、という話になりました。最初はトニックの地下にあったサブトニックで。その後に何度かトニックでも演奏しています。ラズ・メシナイ(パーカッション&エレクトロニクス奏者)が加わることもありました。
畠中 実際に演奏をされた印象はどのようなものでしたか、また、ふたりの即興演奏の特徴はどのようなものだと思いますか。
恩田 わたしたちの演奏は即興でありながら、コール&レスポンスといった、即興音楽のクリシェを避け、ふたりで特定のモチーフをミニマルに繰り返しながら発展させていくものです。大きな流れのストラクチャーの内部で、絶えず小さな変化をエフェクト・ペダルで作りだし、リズムとハーモニーを干渉させながら楽曲のテンションをゆっくりと高めていきます。ひとつのコンサートで1時間から1時間半、2曲から4曲ぐらいを演奏しますが、曲と曲の転換は映像のシーンが切り替わっていくのに近いですね。フェード・インとアウトの場合もあれば、カット・インとアウトの時もあります。映像における「音のずり上げ」(映像の場面転換で、映像と音声が同時に次のカットに変わるのではなく、後の場面の音声だけが先行し、それをきっかけに映像が遅れて切り変わる手法)のように、ひとりが先に別のシーンに入ってから、もうひとりがフォローすることもあります。
畠中 この作品はライヴ演奏の録音を素材として、それに新たな録音を加えて再構成したものだそうですが、作曲上のコンセプトや、ふたりの役割について教えてください。
恩田 2004年にヨーロッパを一緒にツアーして、すべてのコンサートをDATに録音したんです。演奏はほとんど即興でした。ニューヨークに戻って録音された音源をふたりで聴き直して、良い部分をピック・アップしながら楽曲をコンポーズし始めた。ライヴの音源をそのまま使った箇所もありますし、同じように演奏して録り直した部分もあります。そこからわたしが編集作業を始めて、たまにアランに来てもらってギターをオーバーダビングしたりしました。完成までに2年ぐらいかかっていますが、締め切りがあったわけではないのでのんびりとしたペースでした。
リクト ツアーの音源を聴き直して面白かったのは、即興とは言っても、わたしたちは毎晩同じようなアイデアを試していたということです。アキはよく同じ音源を違った曲で使っていたし、わたしも同じ奏法でも異なったヴァリエーションで演奏していた。そうすると、ストラクチャーが同じでも毎晩違うパターンの楽曲ができあがります。これは厳密な意味での即興音楽とは違って、むしろ作曲のプロセスに近いでしょう。いつも、わたし自身は楽曲のアイデアを考えてからライヴで試すことが多いのですが、このデュオでは演奏しながらアイデアを煮詰めていきました。特に、1曲目「tick tock」と5曲目「be bop」はその傾向が強いですね。ちなみに、このアルバムのタイトル『Everydays』は、ツアーで毎晩演奏しながら音楽ができあがっていった過程を表してもいます。それだけでなく、他に意味するところもありますが。
恩田 最初は、ライヴの音源をそのままリリースしようか、と話していました。その音源を素材にしてテープ・コンポシションの手法を用いて再構成してみよう、と思ったのはすべての音源を聴き直して、自分達がどうやって楽曲を発展させたのか意識的に理解した時です。こういう可能性もあるな、と。そうして、結果的にミュージック・コンクレートにライヴのダイナミクスを加えた作品ができたのでしょう。
畠中 わたしはリクトさんの『A New York Minute』(2003年、Experimental Intermedia)の中の、特に「Muhammed Ali & the Crickets」のような曲を興味深く聴き、愛聴していました。ここには恩田さんとの共通点のようなものも見出せると思うのですが、お互いの音楽的なバックグラウンドの共通点、あるいは相違点をどのようにとらえていますか。
リクト 『A New York Minute』に収めたテープ・コンポシションは、具体音のループを作り、レイヤーをいくつも重ねながら作りあげていきました。そこはアキの作曲方法と似ています。ただ、わたしは音源をオリジナルなまま使い、まったく音響的な加工を加えていません。そこは、アキと違う。「Muhammed Ali & the Crickets」について言えば、リズムの類似性から曲を考えていきました。モハメッド・アリがサンド・バッグを打ち鳴らす音と、ヘビーメタル(スレイヤー)のサンプルが同じようなリズムを刻んでいます。それに、コオロギの鳴く音のリズムが重なります。アルバムの1曲目、「A New York Minute」はラジオの天気予報を音源として使っています。毎日同じ時間に放送される天気予報を並べただけのものです。それが地下鉄の改札機をひとが通る度にたてる電子音に切り替わっていく。誰もが知っている日常的な音を拾いあげていくとどうなるか、というコンセプトにもとづいて作られたこの曲は、「Muhammed Ali & the Crickets」と違って、具体音の持つ「意味」が楽曲のコンセプトに関わっています。
畠中 あるアイデアから、楽曲のシステムとそのプロセスを考え、それを実行するというのは、初期のライヒやライリー、あるいはイーノなどにも通じる作曲方法だと思いますが、そうした作曲家たちからの影響はありますか?あるいはクリティカルに継承するような方法論がありますか?
リクト それら3人のコンポーザーからは影響を受けています。『A New York Minute』に収録した「Remingtons Khan」は、テリー・ライリーの長いオルガン即興演奏にインスパイアされています。それに、わたしはヘンリー・カイザーの『It's a Wonderful Life』(1984年、Metalanguage)を聴いてから、自分自身のソロ・ギターの即興演奏のスタイルを確立していったのですが、カイザーのそのアルバム自体がライリーに影響されています。ブライアン・イーノのループ・サウンドの使い方は今でもよく試してみますし、スティーブ・ライヒの反復構造を持ったリハーモナイズ(reharmonizations with repetitive structures)のアイデアはいまだに作曲、即興に関わらずよく用います。
恩田 アランの場合は「コンセプトが先にありき」なんです。わたしはまず演奏してみて、なにか直感的に閃いたら、そこからコンポーズしていく。先にコンポーズするか、後でするか。そこはわたしたちの決定的な違いですね。それに、わたしは自分でフィールド・レコーディングした音、またはファウンド・サウンドでも自分の記憶や経験に深く関わった音を使いますが、アランにはそういったこだわりはない。でも、違いは別にして、お互いの作曲、演奏の方法はかなり似ています。そのせいか、一緒に仕事をしていてあまり意見の相違がない。
畠中 「自分の記憶や経験に深く関わった音を使う」ということが、恩田さんの音楽を構成する重要な要素になっていると思います。なぜそのような音を選択するのですか、あるいは、そのような音が選択されてしまうのですか?
恩田 わたしは「記憶」というものに並々ならぬ興味を抱いています。オブセッションなので、それに対してことさら意味付けをしようとは思いません。音であれ写真であれ、日記的に録り/撮り溜めていって、それらを素材にしてなにかを作り出すのがわたしのアートなんです。でも、正直なところ、陰気な気の滅入る作業ですね。いくら記憶の堆積が大きくなったとしても、それは自分の経験してきた現実の名残でしかないわけです。まるで現実の陰と戯れているような、おぼろげに揺らめく影絵を観ているような儚さを感じることがある。掴もうとしても掴めない。録り/撮り続けることは、なにかを得るというよりは、なにかを失い続けることに近い。
それに、わたしは自分自身の記憶だけでなく、文化や都市やコミュニティーが持つより集合的な記憶にも興味を持っています。というか、個人の記憶も集団の記憶も本質的には同じようなものではないか。個人の記憶を掘り下げていくと必ずより大きな集合的な記憶につながります。音楽でいえば、これまでに聴き続けてきたすべての音楽があったうえで、今、この瞬間に自分が演奏している音楽があるのだと思う。
このアルバムの4曲目「chitchat」で、ジョン・コルトレーンのラジオ・インタヴューのテープを使いました。楽曲のベースになるループを作った後にアランが提案したアイデアなんですが、そのインタヴューの音源のカセットを聴いて、楽曲の方向性が定まりました。コルトレーンがインタヴュアーとマルコムXについて話している箇所の前に、わたしがニューヨークの地下鉄のプラットフォームで録音した黒人の女の娘たちのたわいのない日常的な会話をつなげて、でたらめにカセットを演奏したら、ジャズのフレーズが飛び出してきた。ただの偶然なんですが、コルトレーンという記号と街角の音が出会い、ニューヨークらしいサウンドスケープができあがってしまった。それは、なんらかの必然性があったからかも知れない。わたしはそういった記憶の連鎖を紡ぎだしていくうちに見えてくる何かに興味があります。そういえば、「chitchat」は、アランがギターの弦とネックの間にニューヨークの地下鉄のメトロカードを挟み込んで弾いたプリペアド・ギターの音を重ねています…。ちょっと話がズレましたね(笑)。
畠中 現在のいわゆるニューヨークのダウンタウン・シーンはどのようなものでしょう。そうしたシーンをどのようにとらえていますか? たとえば、この作品はその状況を反映したものなのでしょうか。少なからず音楽家(もちろんひいては表現者)は、自分の置かれた状況を対象化しながら作品を作っていると思いますが。
恩田 まず、ニューヨークの「ダウンタウン・シーン」と言われると、80年代のジョン・ゾーンらに代表されるアヴァンギャルド/エクスペリメンタル音楽の流れを思い起こしますが、実際はそれだけではない。この都市の音楽のシーンは多様性があり、なおかつ層の厚みがある。
リクト ルーレット、ISSUE・プロジェクト・ルーム、ザ・ストーン(いずれもニューヨークの演奏会場)などは、いわゆる「ダウンタウン・シーン」に属していたミュージシャンや、その関連のシーンのミュージシャンが演奏していますが、(1年前に閉鎖された)トニックは例外的に他のジャンルのミュージシャン達も受け入れていました。たとえば、インディー・ロックやノイズなどです。わたし自身について言えば、90年代はラン・オンなどのグループで演奏していたため、インディー・ロックのシーンに属していると見なされ、エクスペリメンタル音楽のシーンではほぼ無名でした。ところが、00年代になってから、わたしのキャリアはエクスペリメンタル音楽の分野で定着していった。ですが、いまだに、わたしの音楽に対する基本的なアプローチは60〜70年代のロックから強い影響を受けています。さらに言えば、わたしは、ポピュラー音楽ですら、新たな音楽のあり方を探求するという意味合いでは、ある種の実験音楽だと見なしています。ポピュラー音楽特有の次から次へと新たなスタイルを生み出そうとする差し迫った緊張感は好きです。それに反して、どんなスタイルでも、硬直化し誰もがそれを繰り返すようになると、音楽のエキサイトメントが薄れてしまう。
恩田 わたしは、必ずしもニューヨークのある特定のシーンに属しているとは思わないんです。エレクトロニス・ミュージックや即興音楽のイベントで演奏することも多いけれど、それらのスクールに属しているとは思っていない。むしろ、アクセスがあると捉えている。
畠中 恩田さんの発言には、つねにオルタナティヴな位置に自分を置く、というような姿勢を感じますが、シーンなりの内部に身を置くのではなく、外部からコミットしていくような自分の活動と、その音楽の場所をどのように位置づけますか。
恩田 子供の頃から集団に属するのが苦手で、学校にもろくすっぽ行かなかったし、音楽を学ぶ上でも特定のスクールに属すことはなかった。わたしはすべてを独学で学んできたんです。でも、大学教授がふたりいる家庭で育ち、学者やアーティストのコミュニティーのなかで育ったので、文化全般に於いてアカデミックな(体系的な)言語を理解することもできる。"アウト" にいるのだけれど、"イン" も知っているということですね。「外部からコミットする」というのは、そういうバックグランドのせいかも知れません。より正確に言えば、わたしの位置は "アウト" にあって、漂白し続けているうちに間違って "イン" に入り込むこともある。結局のところ、わたしはボヘミアンなのでしょう(笑)。若い頃から本当に好きで聴き続けてきた音楽家は、特定のジャンルに属さず、自分自身のスタイルを勝手に捏造してしまったアウトサイダー達です。例えば、ローレン・コナーズ、ゲザリア・タザルテスのような。彼らの音楽には、ジャンルの内側にしかいないアーティストにはない、やむにやまれぬ緊張感があります。自分の存在そのものをかけた孤独な戦いですから。
リクト ギターを弾き始めた十代の頃からずっとモーダルな音楽に興味がありました。たとえば、マイルス・デイヴィス、バグパイプ音楽、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(中世ドイツの女子修道院長であり、作曲家)などの同じスケールで演奏するスタイルです。ロックはわたしに取ってはある種のモーダル音楽でした。ひとつのシーンに属していたわけではないのでこういう聴き方ができたのでしょう。
畠中 ジャンルでではなく、「実験的である」という姿勢において共感するアーティストのつながり、というのが多様性を生んでいる、ということですね。先ほど、リクトさんは60〜70年代のロックに影響を受けたと言われましたが、その中にモーダルな要素を聴いていたということと同時に、その逆に「モーダルなもの」ということが中心にあって、それらが、ロックやジャズやミニマル・ミュージックや古楽などを媒介したということでしょうか。
リクト ロックを聴く以前はクラシックを聴いていました。モーダルなバグパイプ音楽や一部の民族音楽も好きでしたが、それらとロックはわたしにとって別のものでした。十代の終り頃、ジョン・コルトレーン、特に「Afro Blue」を聴いて、ドアーズがその曲を「Universal Mind」で引用していることに気づき、ようやくモーダル音楽と即興を多用した60年代のロックがわたしのなかでつながりました。オールマン・ブラザーズ、ジェファーソン・エアプレイン、ベルベット・アンダーグランド、ザ・バーズなどです。
畠中 この作品は、なにかを喚起する強い力を持っていると思います。もちろん具体的に何であるかは定かではないですが。音楽というものは感情に訴えるものだ、ということを恩田さんはいつもどこか考えているような気がします。現在の電子音楽や即興音楽、あるいは、それに類する音楽が形式的に突き詰められ、ある意味、非常に観念的なものへ向かっていくというような動向もあると思いますが、ふたりにとって、たとえば表現の可能性のようなものを、いまどのようなものに見出していますか?
恩田 意図的に感情に訴える音楽をつくろうとしたことは一度もありません。自分のなかにある感情がつくりだす音楽に自然に乗り移るんだと思います。むしろ、思考のレベルでは、音楽をどうコンポーズしていくかを具体的に考えている。今の音楽シーンについては、あまり意識していません。そこにどういう可能性が潜んでいるのか、正直なところよくわかりません。ただ言えるのは、今、音楽を聴いても、十代の頃にフリージャズやミュージック・コンクレートやニューウェーブを聴いて受けた衝撃はもうないですね。
過去数年は、シネマージュというわたし自身が撮影した写真のスライド上映にギターの即興演奏を加えるプロジェクトに時間を割くことが多くかったんです。このプロジェクトの映像はある種のエクスパンデッド・シネマ(拡張された映画)とも言えるでしょう。一枚のスライドを10〜20秒間隔で見せます。フィルム映画だと毎秒24フレーム(コマ)で上映されるので、極端にスロー・ダウンした映画ですね。ベラ・ター(ハンガリーの映画監督)やペドロ・コスタ(ポルトガルの映画監督)の作品のように、わたしは映像を静止させて、対象を眺め続けるのが好きなようです。スライド編集の技法も映画と似ていますが、プロジェクターを一台しか使わず、一定の時間の間隔でスライドを送っていくだけなので、本当に基本的なテクニックのみを使います。決められた制約のなかで、連鎖するイメージからどれだけ強い映像効果を生み出せるかを試みています。
近年は音楽よりも映像に興味の対象が移行していたせいか、昔からの実験映画を浴びるほど観ていました。音楽からではなく、映像の持つ可能性からインスピレーションを受けることが多かった。わたしは十代の半ばにマヤ・デレン、ケネス・アンガー、ジョナス・メカスなどの映像作家の作品に出会い深く感化されたんですが、残念なことに当時の日本では、その他のマイナーな映像作家の作品を観る機会は皆無に等しかった。その先になにがあるのか、いつも気になっていました。過去十年間はニューヨークで過ごすことが多いので、そういう映画をふんだんに観ることができる。優れたプログラムを提供するインディペンデント映画館がたくさんあるので。欠けたパズルの断片を埋めていくような感じですね。
畠中 リクトさんは、以前マイケル・スノウにインタヴューをされています。彼は実験映画作家であり、音楽家でもあるわけですが、たとえば、彼は「映画作家が作る音楽」、「音楽家が作る映画」のように、自身のプロフェッショナリティをはなれたところでなされる表現に興味があると言っています。彼の「構造映画」からの影響のようなものはありますか?
リクト 彼の「構造映画」の代表作《波長》(原題「Wavelength」1967年)を観てファンになりました。90年代の終りに雑誌の仕事で彼にインタヴューして、その後にカナダのフェスティバルで一緒に演奏する機会もありました。「映画作家が作る音楽」、「音楽家が作る映画」というような喩えは面白いですね。事実、マイケルはミュージシャン(ピアノ奏者)として活動を始め、その後にアーティスト、映像作家になりました。ですが、わたしはむしろ「アーティストが作る音楽」、特にそれが視覚的なアートの方法論を用いられた場合、に興味を持っています。それが、わたしが最近出版した本『Sound Art: Beyond Music, Between Categories』(2007年、Rizzoli)に書いたことです。
わたしは、初めてのギター・ソロのアルバム『Sink the Aging Process』(1994年、Siltbreeze)に収録した「Polarity」という曲で、あるコードをディレイ・ペダルを使って短くループさせ、ディレイ・タイムのつまみをゆっくりと動かしながら極端に引き延ばされたグリッサンドの音を作りました。思うに、これは《波長》に影響されていたのかも知れません。《波長》のサウンドトラックは、シンセサイザーのー音がゆっくりとした速度でグリッサンドし続けます。音は絶えず変化し続けますが、あまりにも微妙な変化なので、まるで静止しているかのように聴こえます。
畠中 恩田さんの映像から受けたインスピレーションがどのように音楽に翻訳されているのか興味があります。
恩田 わたしがカセットでフィールド・レコーディングなどの具体音を演奏する時は、映像的に音のイメージをコラージュする編集の手法をよく使います。フィールド・レコーディングはあくまで“音”ですが、雨の音や人の話し声のように、聴くだけで録音された状況を認識できる記号が盛り込まれているので、楽音に比べると具体的な映像のイメージを喚起しやすい。それらのイメージとイメージを編集していって、サウンド・モンタージュをコンポーズすることは不可能ではない。ただ、具体音でも音程やリズムの要素は含んでいるので、それらを組み合わせるのに楽理的な制約は必ずつきまといますし、楽曲全体のストラクチャーに沿う必要もあります。映像と音楽はかなり異なった体系的な言語から成立しています。相互に翻訳することは部分的には可能ですが、部分的には不可能でしょう。
わたしにとって、マイケル・スノウの4時間以上に及ぶ大作《Rameau's Nephew by Diderot (Thanx to Dennis Young) by Wilma Schoen》(1974年)は、映像と音の関係性について多くの可能性を提示してくれる作品でした。彼の「構造映画」のシリーズとはひとつのストラクチャーからアイデアを展開していきますが、この《Rameau's Nephew....》は反対で、 映像と音のあらゆる関係性を百科事典のように提示していきます。マイケル自身が台所の流しをパーカッションのように演奏していたり、口笛で鳥の鳴き声を模倣したり、裸の男女がバケツに放尿していたり…、全部で24のセクションから成り立っていて、映像と音を同時に録画/録音、編集してあくまで対等に並立させている。これはミュージシャンとしてキャリアを始めたマイケルだからこそできたことでしょう。実際、映画館でこの映画のサウンドトラックをカセットに録音してみたんですが、再生してみて音だけでも十分に成立することに気づきました。とは言っても、《Rameau's Nephew....》はかなり特殊な例です。ここから何らかの答えを得られるわけではない。でも、この作品は映像と音の関係性について多くの問いを投げかけていることは確かです。
わたしとアランは、数年前からマイケルと一緒に演奏しています。近いうちに初めてのトリオ・アルバムがカナダのレーベル、Victoからリリースされます。カナダの二都市で録音したライブ音源をまとめたものです。マイケルは、CAT・シンセサイザーというモジュラー・シンセサイザーをメインに、短波ラジオやピアノも演奏しています。彼は80歳近いのですが、考え方も行動も柔軟なので、とても仕事がしやすいですね。トリオだと、アランとわたしのデュオに比べて、即興の度合いが高くなり、よりサウンド・コラージュ的です。音がそうなら、アルバムのタイトルは「Five A's, Two C's, One D, One E, Two H's, Three I's, One K, Three L's, One M, Three N's, Two O's, One S, One T, One W」、と3人の名前を切り刻んでコラージュしています。ついでに、ジャケットは3人の写真を切り刻んでコラージュしています。
畠中 ジャケットのドローイングを描かれた小金沢健人さんとはどのように知り合われたのですか? 彼の作品、あるいはアーティストとして、どこに興味を引かれましたか。
恩田 2003年にベルリンでソロ・コンサートがあった時、ステージの合間に彼が話しかけてきて、「明日、作品をギャラリーに見に来て欲しい」、と誘われたんです。かなり強引で、作品がつまらなかったらどうやって逃げよう、と思ったんですが、実際には素晴らしかった(笑)。それ以来、ベルリンや東京でよく会うようになりました。『Everydays』のジャケットをどうしようか考えていた時に、ベルリンの彼に自宅兼スタジオにしばらく泊めてもらうことがあって、毎日、彼の制作する姿を目の当たりにして、ぴったりじゃないか、と。彼は、日々の鍛錬のなかから作品を生み出していくんだけれど、色鉛筆と紙だけを使って、手探りで対象を捉えようと100メートルのダッシュを執拗に繰り返している。『Everydays』は、ツアー中に毎晩演奏していく過程から生まれたアルバムなので、肉体労働のようなイメージがあって、それが小金沢健人のドローイングと重なったんです。ジャケットの内側に使った宇宙のブラック・ホールのようなドローイングが送られてきた時は、ドキッとさせられました。ジャケットの表面に使った「労働する人」のドローイングがアルバムの趣旨を説明するステートメントとするなら、この宇宙のブラック・ホールはそれをも破壊して吸い込んでしまうかのような、巨大な問いかけに思えたんです。 答えも落ち着く場所もいらないと最初からわかっているので、日々、問いを発し続けるしかないんじゃないか。それが『Everydays』なのかも知れません。
2008年、HEADZオフィシャル・サイト (FADERBYHEADZ.COM) からの転載