聴き手=ルイ・エデュアルド・パエズ
もしかすると、現在のニューヨークの音楽シーンに於て、恩田晃なら良きスタジオ・プロデューサーになれたかも知れない。だが、彼は別な道を選んだ。ポータブル・カセット・レコーダーで録音されたフィールド・レコーディングを用いて、ジャンルに留まらないという意味では民主的、かつ実験的なエレクトロ・アコースティク・ミュージックを作りだすことに専念したのだ。思い返せば、私自身もカセットの虜になっていた時期があった。90年代初頭、アストロナータ・ディサプレシードというインダストリアル・パンク・ノイズを演奏するプロジェクトに取り組んでいたのだ。それゆえ、わたしは、恩田晃にカセット・レコーダーへの偏愛についてつぶさに訊きだす必要に駆られたのだ。ようこそ、アナログの世界へ…。
パエズ: かつて、あなたは、サンプラーとコンピューターを用いて音楽を制作し、スタジオ・プロデュサーとして仕事をしていました。このような最新のレコーディング機器を用いる状況から、アナログなカセットに逆戻りしたのはどうしてなのでしょうか? かつて、あなたは、カセットの使用になんら特別な意味はない、と発言したのを聞いたことがあります。ですが、文字通りには受け止められません。おそらく、背後に哲学的な背景などないのかも知れませんが、このロー・ファイなテクノロジーを選択するに於て、なんらかの意味はあったと思うのです。
恩田: 結論から言うと、わたしにとって、すべての機材は音楽を作りだすための道具に過ぎないんです。デジタル、アナログと分けても意味がない。それらは、音響上の特性がまるで違うので、両方の優れた部分を組み合わせるのがベスト。カセット特有のアナログな暖かみのある音をラップトップで作りだすのは無理だけれど、込み入った編集作業をするなら、プロトゥールズとコンピューターを使う方が便利なわけです。どんな音楽を作りたいかということから、必要な機材が選びだされるだけのことです。
でも、わたしのカセットへの愛着を否定するわけじゃありません。事実、カセット特有のざらついた音質と音色には格別な思い入れがあります。クリアさに欠けるので、プレイ・バックしても同じ音にはならない。厳密な意味での複製にはならない。そこがカセットのウィーク・ポイントなんだけれど、わたしは、その音質上の欠陥がサウンドをより豊かにする、ということに興味をそそられるんです。それと、最近はカセットを演奏する時に、PAシステムのスピーカーを使わず、ダイレクトにギター・アンプ、もしくはベース・アンプにつないでいます。このカセットとギター・アンプの組み合わせから、わたしにとっての理想的なサウンドを得ることができる。ただ、アンプは、フェンダー、ヴォックス、アンペグなどのビンテージの真空管アンプでないとだめ。新しいアンプ、それに昔のアンプに似せて作られたリイッシューは、音がクリアすぎてガッツがないので使い物にならない。----わたしは、カセット・レコーダーで日記のように録り溜めてきたフィールド・レコーディングを演奏するのだけれど、それを、サウンドだけではなく、自分の記憶を演奏する、と言い換えてみてもいいんです。わたしにとって、音楽とはある種の記憶の乗り物、<記憶装置>なんです。そういう意味では、わたしは、音質と音色の選択を人間の記憶の特性を模倣して行った、とも言えますね。わたしたちは、すべての物事をデジタル・メディアのように数学的に曇りなく記憶するわけではないでしょう。それは、えてして、掠れたり歪んだりしていて、鮮明さに欠けます。----ぼんやりとした記憶が忘却の淵に流れつくさまをイメージしてみてくれますか。わたしの演奏する音は、そんな人間の記憶の匂いがしていて欲しいんです。
パエズ: あなたは、スイスで活動するアンドレス・ボサードを知っていますか? 彼は、数台のカセット・レコーダーをコンピュターにつないで演奏するサウンド・アーティストです。それに、80年代にグローバルな規模でカセットで音をやりとりをしたり、それを最終的に販売したりする<カセット・カルチャー>が存在していたのを知っていますか? たとえば、ワット/ネクスト・ノンシーケンサーのロビン・ジェームスが企画していたカセット・ミソス・オーディオ・アルケミーなどです。
恩田: それらの音楽家についてはなにも知りませんが、80年代に、音楽家がグローバルな規模でカセットを郵便でやりとりしていたのは知っています。----わたしの場合、カセット・レコーダーを選択したのはただの偶然なんです。1988年にロンドンに滞在していた時に、ブリクストンのマーケットの路上でソニーのポータブル・カセット・レコーダーを買いました。いわゆるウォークマンですね。その直後、モロッコを訪れたのですが、フェズやタンジールなどの街のエキゾティクなサウンド・スケープに魅了されたのを憶えています。で、買ったばかりのレコーダーでそれらの音を録音してみたくなった。それに、街の音だけではなく、モロッコの民族音楽やポップ・ミュージックにも興味をそそられました。それらは、ラジオで聴くこともできたし、街中のいたるところあるカセット店で購入することもできました(カセットしか置いていないので、レコード店ではない!)。実際、山のように買ったのを憶えています。カセットのフォーマットは、当時、アジアやアフリカの諸国ではもっともポピュラーなメディアだったはずです。それは、おそらく、21世紀になった今でも変わってないんじゃないでしょうか。
カセットで録音し始めた当初は、なにをやっているのか自分でよくわかっていませんでした。音楽を作り始める以前のことで、いったい自分になにができるのか摸索している最中でした。最初の7、8年は、なにも考えずに無邪気に録音しているだけ。それに、気の向いた時に手にする程度でしたね。サンプラーとコンピューターを手に入れ、音楽を作り始めてからは、サンプリングの音源としてカセットで録音した音を使うことはありました。真剣になったのは、ずっと後、莫大な数のカセットが溜まり始めてからです。日本を離れてアメリカに移り住んだ2000年頃から、ようやくそれらのカセットをひと前で演奏するようになりました。で、最終的に『カセット・メモリーズ』として、2003年にアルバムをリリースし始めた。このプロジェクトが形を成し、人目に触れるまでに15年近くの歳月が流れています。時間がかかりましたねぇ(笑)。意図して作り上げたわけではなく、記憶の堆積が膨れ上がるにつれて自然に形を成していった、ということです。
パエズ: あなたは、『アンシェント & モダン』に添えられたライナーノーツのなかで、<サウンド・ダイアリー>=日常的な記憶の断片から構築されたあなたの楽曲は、夢の領域に属する<記憶の音楽>であり、作曲家自身の意図からも、すべての意味からも解放されている、と主張しています。にも関わらず、他のアルバムでは、楽曲に「Rein」、「The Little Girl in Tagier」とタイトルをつけ、音源がなんであったのか、具体的な意味付けを行っています。こういった食い違いは、謎ときを強いられているような気分にさせられます。それに、あなたは、フィールド・レコーディングを行うとき、自分が好きな音を選択し、好きな時に録音ボタンを押すわけです。いわば、すべての録音物はあなたの意思によって決定されています。決してランダムでも偶然でもありません。そして、わたしたちが最終的に耳にするのは、あなたの音の選択です。あなたの記憶にしても、あなたが記憶しようと選択した記憶です。編集過程で他の音と組み合わせるにしても同様、あなたの選択した組み合わせです。あくまでも意図が介在しているように思えます。ずいぶんと矛盾していませんか?
恩田: その問いに答えるのは、ちと難しいですね。あなたの言うことはごもっともです。筋が通っています。ですが、あなたは、わたしの音楽を<外側>から言語のロジックでもって解析しようとしている。音楽を演奏するとき、わたしは音楽の<内側>に存在しているんです。音楽は言語とは異なったロジックで成立しています。それは、より直感的で、抽象的で、瞬間的なものです。たとえば、速いスピードで運動するダンサーの身体の動きを描写してみるとしたら、あなたはそれを言葉で捕らえることができますか? 直接的な表現だけでは難しく、なんらかの暗喩的な表現を使う必要があるでしょう。わたしが自分の音楽についてのテキストをしたためる時も同じです。より音楽的な書き方をします。より暗喩的と言ってもいいですね。音楽のなかにいれば、それらはなんら矛盾ではない。
パエズ: 音楽の制作におけるあなたの方法論と、わたしたちが実際に耳にするあなたの音楽の間にも矛盾を感じます。異なった時間と空間から切り取られてきたフィールド・レコーディングの音を編集しているわけですが、驚くほど音楽的で、しばしば、実際に認知できるフィールド・レコーディングの音よりも、楽器らしき音の方が明確に聴こえてきます。それに、ループが多用され、反復するリズムが音楽的なストラクチャーさえ作り出しています。ようするに、あなたの音楽では、あなたが旅先で採集した音だけを演奏しているわけではない。少なくとも、あなたは、それらの音になんらかの加工を施しています。しかし、あなたは、リスナーの意識がそれらの技術的な側面に集中するのを避けようとしている。あなたが実際にステージで演奏しているのを見れば、そのプロセスは明確なのですが、アルバムだけを聴き、あなたの言葉を追っていくと、謎を掛けられた気分になります。あなたは、あくまで「わたしはそれを見つけた "I found it" 」という立場にこだわり、「わたしはこれを作った "I made it" 」の部分を忘れ去ろうとしています。なぜなのですか?
恩田: カセット、いわばわたしの記憶を演奏するとき、わたしは自分の無意識を解き放とうとします。ある種のオートマティク・ライティング(自動筆記)ですね。それが何処に向かうかなんて放っておけばいい。そうすると、時として、わたしが望んでいた場所に連れて行ってくれるし、時として、それはわたしを予期せぬ場所に連れて行って、未だ見ぬ光景を観せてくれる。サウンドはコントロールするけれど、音楽はコントロールしないようにするんです。音楽それ自体がわたしに働きかけてくるのを待つんです。あたかも音楽がみずから立ち現れるかのように…。わたしはそれを迎え入れるだけです。ようするに、演奏している瞬間は、音楽の内側にいる瞬間は、できるだけ意図を捨て去るようにしたいんです。----そして、今、わたしがここで語っているのは音楽の本質に関わる部分、いわば抽象概念についてです。ですが、さっきからあなたが問題にしているのは、音楽を制作するプロセス、いわば形象概念についてです。それらは違うものです。わかりますか?
パエズ: わたしは、必ずしも違うとは思いません。話を変えましょう。 どうも、あなたはラディカルな実験音楽家のようですね。しかし、あなたはポップ・ミュージックのプロデューサーをしていたこともありますし、しかも、近年、ニュー・ハンプシャーにあるダートマス・カレッジのエレクトロ・アコースティク・ミュージック・スタジオで、ジョン・アップルトンのような電子音楽の巨匠と一緒に仕事をするなど、アカデミックな世界もよく知っています。いったい、どうやってそれらのすべてと関わり合うのでしょうか? あなたは "ジャンルの横断者" なのでしょうか? それらの区分けはあなたにとってなにを意味しますか? あなたのことを "進歩的アカデミック" や "ポップ・エレクトロ・アコースティシャン" と呼ぶのはどうでしょうか(笑)?
恩田: いい加減に言葉で定義するのをやめたらどうです? ほとんど病気ですよ。わたしは、 "進歩的アカデミック" でもなければ、 "ポップ・エレクトロ・アコースティシャン" でもない。ましてや "ラディカルな実験音楽家" なんてもんじゃない。わたしは、音楽を作るだけで、音楽がすべてを語るでしょう。なぜそのまま放っておかないんです? もし、わたしがエスタブリッシュされた既定のジャンル、現代音楽でも、ジャズでも、テクノでも、なんでもいいんだけれど、その中だけで音楽を学んで自己形成したとすれば、おそらく違った道を歩んでいたでしょう。でも、わたし音楽を独学で学んだし、それは今でも変らない。すべてを経験から学び、様々なタイプの音楽を同時に聴き、それらのすべてに興味を持ってきた。わたしと同じ世代に属する音楽家の多くにとって、このような複合的なバックグランドを持つことはしごく当たりまえのことです。
わたしは、ダートマス・カレッジのエレクトロ・アコースティク・ミュージック・スタジオにヴィジティング・コンポーザーとして滞在していました。ジョン・アップルトンがそこの所長です。ただ、わたしの任期は3年で、それはすでに終了しています。----わたしは必ずしもアカデミックな世界に属していたわけではない。ジョン・アップルトンがわたしを雇ったのは、わたしが別な世界で経験を積んでいたからで、わたしがその経験をアカデミックな研究機関に持ち込むことを彼は望んだわけです。それ以上に、わたしがそこに滞在していた理由は、ジョンとわたしの間の友情関係によるところが大きい。わたしたちの間柄は師弟関係のようなものではなく、お互いに理解しあって、音楽に対する認識やアイディアを交換しあうものでした。ジョンは、オープン・マインドな性格だし、より開かれた音楽の形態に興味があるので、ジャンルなど問わずに、様々な音楽家を自分の研究機関に招いてきたんです。ドン・チェリーもそのひとり。ジョンとドンは一緒に『Human Music』というデュオ・アルバムをレコーディングし、それはボブ・シールのフライング・ダッチマンからリリースされています。電子音楽らしからぬ、フリー・ジャズらしからぬ、素晴らしい作品です。
パエズ: あなたは、これまでにフリー・ジャズについてかれこれ言及してきましたし、多くの即興音楽家とも共演しています。たとえば、大友良英、イクエ・モリ、アラン・リクト、ローレン・コナーズ、ノエル・アクショテ、アン・ドラマ・ミュジカル・アンスタンタネ、ジャック・ベロカルといったひとたちです。あなたのジャズや即興との関わりについて話してもらえますか? わたしはあなたがジャズ・ミュージシャンだとは思わないのですが…。
恩田: あなたが名前をあげた音楽家たちは異なったバックグランドを持っています。もちろん、彼ら、彼女らは即興をやるのだけれど、作曲もやる。それに、即興や作曲への取り組み方も千差万別です。とは言っても、一様に冒険好きなひとたちで、ずいぶんと刺激を受けてきました。とにかく、たぶん、コラボレートする最大の理由というのは各自が独自の世界を強烈な個性でもって築き上げているからでしょう。わたしのなにかが、それに呼応するんです。加えて----あなたが故意にこれらの名前を連ねたのかどうかわかりませんけれど----彼ら、彼女らは全員がなんらかの形で視覚的な表現に関わっています。大友良英は日本を含むたくさんのアジア映画のサウンドトラックを作り続けています。イクエ・モリは、最近は音楽だけでなくヴィジュアル作品も手掛けています。彼女は、過去15年間、わたしのお気に入りのミュージシャンのひとりでした。彼女の演奏から即興のテクニックについてずいぶん学びました。アラン・リクトは、リー・ロナルドとテクスト・オブ・ライトを結成しています。これは、スタン・ブラッケージの映画に架空のサウンドトラックを即興で演奏して付けるプロジェクトですね。アランとはよく一緒に演奏するのだけれど、面白いのは、ふたりともいわゆる即興のイディオムを避けるので、いわゆる即興に聴こえない映像的な不思議な音楽になります。ローレン・コナーズは、写真家であり、絵描きであり、詩人でもあります。彼のやりつづけてきたことは、わたしにとってとても重要な意味を持っています。他にこんなひとはいませんから。ノエル・アクショテは、映画にも写真にも精通していて、そういった視覚表現の方法論を音楽に応用できる数少ないギタリストです。アン・ドラマ・ミュジカル・アンスタンタネはサイレント映画に生演奏を付けるコンサートを70年代からやっていました。数多くの演劇的音楽作品も手掛けています。マルチメディア・アートなんて言葉が存在しなかったころからそれをやってきた。いわゆる先駆けですね。ジャック・ベロカルは、私生活そのものが映画なみというか、生まれもっての俳優(笑)。ただ、その役柄は、ロックン・ロールにいかれてます。ヴィンス・テイラーを崇拝していて、マリリン・マンソンと共演したい、なんて真顔で言うんですから(笑)。
わたしがジャズと関わってきたかですって? 直接的な関わりはないですね…。ただ、生まれて初めて好きになったアルバムはアート・アンサンブル・オブ・シカゴの『ピープル・イン・ソロウ(苦悩の人々)』でした。たしか、14歳だったかな。ジョン・コルトレーン、アルバート・アイラー、ドン・チェリー、セシル・テイラーなどのアルバムも聴いていました。育った家庭環境ゆえに、その手のレコードが身近にあったんです。わたしの父は大学で教えていて、母は絵描きでした。両親は、ほとんど音楽に興味がなかったんですが、そのまわりには、学者やら、アーティストやらが多くて、昔はインテリと呼ばれるひとの多くがフリー・ジャズを聴いていた。今から思えば、知的なファッションですかね(笑)。で、そういうひとのひとりがレコードを聴かせてくれて、こういう音楽がいかにラディカルなものかを語ってくれた。ただ、その頃のわたしは、音楽的な知識が皆無だったんで、アンソニー・ブラクストンやセシル・テイラーのように楽理的に複雑な構造を持った音楽は辛かった。難し過ぎたんですね。だから、よりエモーショナルに訴えかけてくるアート・アンサンブル・オブ・シカゴやジョン・コルトレーンなんかの方が好きでしたね。今なら反対で、むしろセシル・テイラーの方が好きで、よく聴くんですけれど。
たしかに、最初に好きになったのはジャズ、特にフリー・ジャズでした。でも、わたしの音楽に対する興味はそこからものすごい勢いで拡がっていきました。わたしにとって、ある種の啓示のように思えたブリジット・フォンテーニュの『ラジオのように』を聴いたのもその頃です。ナナ・ヴァスコンセロスやピエール・アケンダンゲなどの、サラヴァ・レコードから出た他のアルバムも好きでした。そのラインから、やや時間を置いて、アン・ドラマ・ミュジカル・アンスタンタネやジャック・ベロカルのカタログなどにもつながっていったし、同じような匂いのするアメリカ音楽----逸話的、映像的なイメージが入り込んだ境界線上の音楽とでも言いましょうか----たとえば、アネット・ピーコック、マイケル・マントラー、キップ・ハンラハン、ジョン・ゾーンなどにもつながっていった。
その後に、ヒップ・ホップを聴き始め、フレッシュな驚きがあって、ターンテーブルだけで音楽ができることが面白かったですね。サンプラーやコンピューターを自分自身が手にするきっかけにもなりました。音楽教育を受けていなくても、ヒップ・ホップのビートなら作れるな、と。
わたしの音楽に大きな影響を与えたもうひとつの流れは、フランスのエレクトロ・アコースティク・ミュージックです。初期のGRMのレコードには強く触発されるものがあリました。ピエール・シェフェール、フランソワ・ベイル、バーナード・パルメジャーニ、リュク・フェラーリなどですね。ミュージック・コンクレートの発想は、わたしのようにサンプラーとコンピューターから音楽を作り始めた音楽家にとっては、とても親しみやすかった。それは、ヒップホップ的なビートに知らず知らずのうちに拘束されていたわたしの感覚を解きほぐしてくれて、抽象的なレベルでの作曲法や思考法を鍛える訓練にもなったような気がします。でも、わたしのリスニング体験を語るのはこれぐらいにしておきましょうか。延々と続きそうで限がない(笑)。
パエズ: あなたの音楽の出自を考えると、音楽ではない分野に辿り着くようです。たとえば、リュック・フェラーリやフィル・ニブロックらのように。具体的に名前をあげると、実験映画のイコンとも言えるジョナス・メカス、スタン・ブラッケージなど(クリス・マイケルはどうですか?)、写真家のロバート・フランク、ピーター・ビアードなどです。なぜこのようなことが起こったのでしょうか? それに、文学からの影響もあります。あなたは、実際に、マルグリッド・デュラスをたびたび引合いに出しています(彼女は、映像作家でもありました)。ある、評論家があなたの作品を思想家のウォルター・ベンヤミンと関連付けて語っていたこともありました。このような音楽以外からの影響はどのような意味を持つのでしょうか? 音楽作品を作るあなたにとって、映像的なクオリティーを求めることはなにを意味するのでしょうか?
恩田: 憶えている限りでは、フリー・ジャズを聴くまえは、ほとんどなにも聴いていませんでした。誰もが聴くようなポップ・ミュージックにも興味がなかった。4歳か5歳の時に、絵描きになろうと決心しました。そんなこんなで、絵画、テキスタイル、写真などに子供の頃から親しんでいました。音楽にはまり込むまでは、もっぱら視覚的な表現に興味があったんです。で、学校に通い始めるや否や、困ったことになりました。わたしは、教室の中で、なぜみなが同じことをしなきゃいけないのか理解できなかった。素朴な疑問です。で、嫌なことはできない頑固な性格だったので、生理的に拒絶反応を示し、規則にまったく従わなかった。かなりの問題児でした(笑)。ずいぶんと学校をさぼったし、たとえ出席していても、周囲の生徒や教師を無視して、静かに本を読み、自分の世界に浸り切っていましたね。実際のところ、わたしは、世の中で必要とする知識のほとんどを読書体験から学んだんです。----15歳ぐらいで、実験映画や前衛的なダンスや演劇作品なども観るようになりました。その当時、大阪や京都には、アンダーグランド・フィルムを上映する映画館がいくつかありました。そういう場所に入り浸り始めた。そこで、マルグリット・デュラス、ジョナス・メカス、ケネス・アンガー、マヤ・デレンらの作品を初めて観たんです。他では寺山修司の世界に入れ込んでいましたね。とにかく、そういった映像に圧倒されて思ったのが、「これが本当の現実なんだ! このしみったれた社会で体験する日常のレベルの現実なんて嘘っぱちだ!」。ずいぶん青臭く聞こえますけれど、まあ、年端の行かぬ少年でしたから(笑)。わたしは、育った環境がまったく日本的ではなかったので、社会の中でストレンジャーとして自己形成せざるを得なかった。結局、自由を求めていたんだけれど、それは日本の社会では必要とされていなかった。映像と意識の新たな領域を切り開いていったフィルム・メーカーたちのビジョンが、孤独に行き抜くための勇気を与えてくれたし、わたし自身のビジョンを形成する基盤になったんじゃないでしょうか。やはり、だれでも、十代の頃に人生が変るような経験をすると、それは、ある種の啓示として作用するし、新たな道を切り開いてくれるし、一生その人に憑いてまわると思うんです。
2年前、フランスをツアーしていた時に、コンサートの合間に数日間のオフがあったんで、ノルマンディーのトルゥーヴィルという町を訪ねたんです。この町は、パリから最も近い海辺のリゾート地として知られていて、マルグリッド・デュラスが浜辺の古い邸宅にアパートを所有していました。わたしが訪れたのは冬が始まった頃で、町は閑散としていました。無人の通りを一人で歩きまわり、邸宅に辿り着き、建物の横の階段を下り、穏やかな波が打ち寄せる白い砂の浜辺に出ました。どうしたことか、とても奇妙な感覚に囚われました。強烈なデジャ・ヴュ(既視体験)です。初めて訪れたのに、町の街路や浜辺の景色を隅から隅まで知っているんです。なぜこんなことが起こったかと言うと…、デュラスの物語にはこの町を舞台にしたものが多く、それらの本を十代の頃に読み耽るうちに、わたしの記憶の中に刷り込まれてしまっていた…。まるで、彼女がその景色の中にいるように感じました。より正確に言えば、彼女のエクリチュールから伺うことができる彼女の<声>のオーラをそこらじゅうに感じたんです。----その経験の後、ある個人の記憶というものは、いったいどれだけその人に属しているんだろうか、と考え始めました。もっと大きな人間の記憶とでも言うべきものがあるんじゃないか、と。トルゥーヴィルという町でわたしが視た光景は、わたし自身の記憶なのか、彼女の記憶なのか、それとも、わたしと彼女の共有する記憶なのか? そうやって考えていくと、個人の記憶、場所の記憶、文学であれ音楽であれ、あらゆる文化形態の記憶、それらのすべてがわたしたちの知らない遠くの場所でなんらかの形でつながっているように思うんです。
パエズ: あなたは音楽家のみならず写真家でもあります。しばしば、視覚的な要素を音楽に加え、サウンドとヴィジュアルの重層的なイメージを作り出します。しかし、なぜ、イメージが重なり合う必要があるのでしょうか? 以前、フィル・ニブロックは、わたしにこう語りました。「それらのイメージの位相が重なり合うと、周波数どうしが干渉し合い、とんでもないハーモニクスの響きと "ファントム" 効果とでも言ったらいいか、幻のような現象が生じるんだ」。あなたの場合ならどうですか?
恩田: サウンドとヴィジュアルは、メディアとしてはまったく違うものですが、それらに対するわたしの感受性はかなり似通っています。だから、同じようなアプローチの仕方をしています。わたしの中で、それらのふたつは双子のように育ったせいでしょう。切り離すのがとても難しい。
どうも、わたしの音楽は、放っておいてもある種のヴィジュアル・イメージを喚起するみたいです。可笑しいのは、たくさんのコンサート・オーガナイザーが、わたしに仕事の依頼をする時に、わたしがてっきりヴィジュアルを使うものだと信じ切っていたことです。たいてい、プロジェクターかなにかを用意しなくていいのか、と訊いてくる(笑)。でも、わたしは音楽を演奏する時に、ヴィジュアルは使いたくないんです。わたしの音楽を触媒にして、聴き手が好きな映像を勝手に想像してくれた方がいい。両方を使うとお互いにイメージを限定し合って、聴き手のイマジネーションの働きを束縛してしまう。で、わたしの音楽と聴き手の想像上の映像が重なり合えば、それらが干渉し合って、フィルが言ったような "ファントム" 効果を生みだすこともあるんじゃないか。ズレからある種の幻影が生みだされるんじゃないか。さらに、同じように、ある空間の中で百人の聴き手がいて、百個の異なったイメージが別個に発生すれば、それらのイメージのズレが別な "ファントム" 効果を生み出すこともあるやも知れない。その場がもつ幻影ですね。とにかく、なんらかの強いエネルギーを得たいなら、異なった周波数を同調させて強烈な振動を発生させるんです。それは、アプローチは違っても、フィルの考えと基本的に同じような気がします。
最近、オーディオ・ヴィジュアル作品を制作しているんです。写真の静止画像をスライド・プロジェクションで観せて、映画的な効果を作りだす。スタイルとしてはクリス・マイケルの「ラ・ジュテ」に近いですね(最終的には、16ミリのフィルムにトランスファーしたいんですが、金が掛かるので先の話になるでしょう)。そして、その映像に合わせて、他のミュージシャンに即興で演奏してもらう。映像は同じでも音楽はその時々で違うわけです。わたしは、このスタイルを<シネマージュ>と呼んでいます。「シネマへのオマージュ」、もしくは「イメージのシネマ」という意味です。で、この場合も、わたしはサウンドとヴィジュアルの両方を手掛けるのは避けたい。おそらく、わたしのサウンドとヴィジュアルに対する感受性は近過ぎて、両方をやってしまうと、完全に同調してしまい、ズレがないゆえに "ファントム" 効果が生まれにくいのかも知れません。もう少し色々と試してみないことにはなんとも言えないんですが…。
パエズ: あなたが過去に行ったインタヴューを読んで、<オブセッション>という言葉を何度も繰り返していることに気付きました。それに、<パッション>、<逸脱>という言葉もです。あなたは、そういった狂気や人間の精神の暗部に興味を持っているのでしょうか?
恩田: わたしのいくつかのアルバム、たとえば『アンシェント & モダン』は、かなりエモーショナルで、強いオブセッションをベースにして作られています。でも、他にまったく違ったムードのアルバムもあるし、それは、たぶん、わたしの音楽のひとつの側面に過ぎないんじゃないでしょうか。あなたがここで強調しようとしている精神の状態は、意識でコントロールできるもんじゃない。心の奥底から勝手に浮かび上がってくるものです。もし、あなたが、わたしの音楽の中にそれらを見たなら…、そうなのかも知れませんが、わたしにはよくわかりません。
でも、あなたの質問から、わたしの子供の頃の記憶のひとつを思い出しました…。わたしの家族が住んでいたのは、奈良県の小さな町にある崩れかけたようなオンボロの大学の教員の寮でした。で、その建物は周りを大きな部落に囲まれていたんです。バラックより少しましなぐらいの貧相な長家が建ち並んでいました。その当時でも、部落民の生活は普通の人たちのそれとは切り離されていたし、お互いに付き合うことがなかった。でも、わたしは、いつも部落民の子供たちと遊んでばかりいました。そこは、わたしにとって、とても居心地が良かったんです。部落の子供たちとわたしは盗みばかりしていました。駄菓子や日用雑貨を万引きしてきたり、自動販売機を破壊して中の缶ジュースやポルノ雑誌を掻っ払ったり…。70年代、部落解放運動によって部落は解体されていく最中で、取り壊し中の空家がいたるところにありました。そのひとつを自分たちのアジトにしていました。そこで、よく盗んできたものを燃やす儀式をやりました。空家そのものに火を点けたこともあります。燃え拡がってたいへんなことになる前に、これまた盗んできた消化器をぶっ放して鎮火する。わたしたちは、なんでも燃やしてしまいたかった。ずっと炎に見入っていると、別な世界にトリップして行くことができました。ある長家のひとつで、いつも男と女が乳くり合っていて、それをよく覗きに行ったりもしました。それも、別な世界にトリップして行くことができた。----部落には、社会から隔離されているためか、どことなくアナーキックな雰囲気がありました。誰もが「見放されている」という気持ちを心のどこかに隠しもっているので、お上に従う必要がなかったのかも知れません。----こんなこともありました。ある曇り空の下、部落と他の村を隔てる坂道で、部落の少女が脇道から飛び出して車に撥ねられたんです。幸い死ななかったものの大怪我をしました。その少女の父親は、それを聞き付けると長家から飛び出してきて、ドライバーを車から無理矢理引き摺りだして、無茶苦茶に殴りつけたんです。血が坂道をつたっていきました。----わたしの部落での記憶の多くは、本能的な衝動に従ったエモーショナルなものでした。とは言っても、遠い昔のそれらの記憶は、今となっては、どこまでが現実でどこまでが夢だったのかすら曖昧です。すべてが一緒くたになって、霧の向こうに見えるひとつの光景と化してしまい、わたしの原風景のひとつとして脳裏に刻み込まれたんです。----わたしの両親は、わたしが10歳か11歳の頃に、小奇麗な住宅地の中に建つ立派な家を買い、一家はオンボロなアパートから引っ越しました。そこを離れるのがとても悲しかったのを憶えています。それに、80年代には、その部落も取り壊され、後には雑草の生えた更地が残りました。そこに住んでいたひとたちは、おそらく、多くの部落民がそうしたように、自らの出自を隠して他の街へ、特に都会へ移り住み、新たな生活を始めたのかも知れません。数百年の間、そこにあった部落は、そこにあった多くの記憶とともに何処かへ消え去ってしまった…。
この数年、特にニューヨークに移り住んでから、わたしは、もしかしたら、子供の頃や10代の頃に見た原風景の数々を追い求めているんじゃないか、同じような光景を探し続けているんじゃないか、と思うようになりました。幻影をそこらかしこに見掛けるんです。----20代の頃は自分の過去を振る返ることを避けていました。音楽の世界で、作曲やプロデュースやエンジニアリングを学んで、自分の可能性を外へ外へ延ばしていくことに一生懸命でした。でも、ある時点から、そういう目的を達成していくことを目的とするような、社会的な欲求が薄れていったんです。すると、忘れていた過去の記憶が少しずつ蘇ってきました。それらは、自分自身で考えていたよりもずっと豊饒でした。----今、カセット・メモリーズの第三弾としてリリースされるアルバムをレコーディングしています。『Come Home』というタイトルです。いったいわたしがどこからやってきたのか、おそらく、それが描かれています。