Improvised Music from Japan / Aki Onda / Information in Japanese

アンノウン・テリトリーにて

恩田晃インタヴュー

聴き手=畠中実 / 構成・編集=吉住唯

  

ルーツのないコスモポリタンとして

──恩田さんはアルバム四枚の他に、ここ2、3年はカセットテープに録音した環境音をもとにソロ・パフォーマンスもやられています。また写真も撮られていて、それらは展覧会やスライド・ショーなどに結実しています。これら広範な活動を貫く要素として「偶然の出会い」を、恩田さんの作品に感じるんです。カセットテープのソロ作品では、日記をつけるようにその時々で出会った音を録音しますね。演奏家との出会いというのも似ているのではないでしょうか。

恩田 言われてみれば近いかもしれませんね。カセットの場合、意図せずに出会ったものを受け入れ録音する。もちろん自分との強い繋がりがないと、カセットの録音ボタンは押さないけれど。道端を歩いていて自分と繋がりを感じる音というのは、その瞬間は理解できない音だと思う。

テープ作品をどう作るかというと、まず、ぶらぶら歩く中で1シーン10秒程度の音をテープにランダムに録音していく。それから一、二年寝かしておいて、そこにまたランダムに音を重ねる。すると自分の経てきた体験・記憶が脈絡なくコラージュ化された堆積ができあがります。録っている瞬間には、車の音であったり話し声であったり、音に意味がある。つまり自分がそこにいて視覚的に確認するから意味が分かるわけだけど、録音して音だけになるとコンテクストから意味が剥がれますよね。それをさらにコラージュ化していくと、もとあった意味はどうでもよくなってくるのね。もしかしたら、それは自分の記憶のシステムに近づけようとしているのかもしれない。人間の記憶のシステムというのは、言葉のシステムと違ってそんなに論理化されたものではないでしょう。

──ジョナス・メカスもフィルムに鋏を入れる前に何十年と寝かしたりしながら、記憶にアプローチしていますね。

恩田 強く影響を受けたのはメカスや、ロバート・フランク、ピーター・ビアードなど、パーソナルな記憶を素材に、摩訶不思議な現象を描き出すアーティスト……記憶に取り憑かれた人たちです。記憶が何であるか、彼らは解明しようとはしませんよね。むしろ、記憶のシステムそのものであろうとする。

──環境音を録音しようと思ったきっかけは何ですか。

恩田 かれこれ十年近くになるけれど私は旅がちな人間だったから──根無し草のようにふらふら生きてきただけですが(笑)──DATを行く先々に持っていって録りためていたんです。最初の五年くらいは取り憑かれるようにやっていただけで、それが何になるのか自分で解明しようとは思わなかった。で、続けていくと凄い量のテープがたまり始める。あまりにもたまって困るので、仕方ないから上から重ねていこうかと(笑)。そうやってスタイルができてきた。写真に関しても、毎日レコーダーを持って歩くのもつまらないから、週に一度くらいはカメラを持ってみようかという(笑)。

──恩田さんにとって写真は音楽で行っていることと繋がるのでしょうか。

恩田 基本的には同じことをやっていると思う。私のパーソナルな生活の断片を記録し、その堆積が何かを見せる。堆積されたものを目の前にしては、ひとつひとつの事柄はどうでもよくなってくるのね。むしろ凄い量の堆積物によって見えてくる何か──記憶のシステムやエッセンス──におそらく私は興味があるのだろうと思う。それは具体的な意味が剥奪されたものです。

私の場合、写真といっても映像に近い感覚なんです。静止画像【スティル】ではなくて動画【ムーヴィング・イメージ】。写真家の写真は一瞬を切り取り絶対視するけど、私の写真は動きの中の一瞬というか、前後関係が見える状態で撮る。

──メカスのフローズン・フィルム・フレームスを思い出しますね。

恩田 メカス自身が言っているけど、彼の作品は三、四コマの中に全てが見えてしまう。NYでメカスに会ったのも、彼が私の作品から何かを感じて作品展を二つ企画してくれたのも偶然だけど、自分の作品と通じるものを感じたんでしょう。実際、私もメカスに会うまでは、記憶とかいったことを意識してなかったんですね。彼と時間を過ごしていたら、何となく意識できるようになる。鏡を見るような感じで似た人を見つけたわけです。

──メカスとの出会いはどのようなものだったのですか。

恩田 よく覚えてませんが、十代の頃『リトアニアへの旅の追憶』を観てものすごく感動したんです。メカスとマルグリット・デュラスは私の中で大きな存在でした。私は育った環境が全く日本的ではなかったので、社会の中でストレンジャーとして自己形成せざるを得なかった。私は自由を求めていたけれど、それは日本では必要とされていませんでした。で、ルーツのないコスモポリタンという生き方をしていたわけです。その時に彼らから、あらゆるコンテクストとは無関係に自分の感覚を絶対視する潔さや勇気を学びました。

アメリカにて

──現在はアメリカで活動されているわけですが。

恩田 僕はどこも仮住まいなんですね(笑)。基本的な生活はニューハンプシャーで半分、NYで半分、田舎と都会の二重生活をしています。

──ダートマス・カレッジで電子音楽の研究をされていますね。

恩田 電子音楽の作曲家であるジョン・アップルトンが主宰するエレクトロ-アクースティック・ミュージックの研究所に属しています。アカデミックな研究機関はすでに行き詰まっていて、ジョン・アップルトン自身もそういう世界に幻滅している。学究的な世界とは違う感覚を持った人間が欲しかったのではないか。もともと私はサンプラーとコンピュータで音楽を始めた人間で、電子音楽にも興味があったけど、言ってみれば在野です。だから独自に積み上げた知識と、アカデミズムの知識のあり方とを照らし合わせることで、自分のあり方がより明確にできると考えた。

訳の分からないことに対して、僕は本能的に興味を持ってしまう。すでに分かってしまったことに対しては、あまり反応できない。それは単純にエキサイトメントがないから。エキサイトメントの感覚が音楽やアートに与えるもの、それは凄く大切だと思うんですね。電子音楽の世界でも、パイオニアと呼ばれる人たち──世代でいうと60〜70歳代──彼らが電子音楽を始めたときは、訳も分からずやっていたというと言い過ぎだけど、強い衝動に突き動かされていたことは確かです。テクノロジーの進歩と共にあって何か凄いことが起こっている、そういう感覚に飲み込まれながら生きていた。例えばクセナキスにしても、彼はガチガチに理論武装してたけれど、実際は彼が戦時中に得た原体験のオブセッションへの盲信に向かって猛進していたようなところがある(笑)。だから人は彼の作品に得体の知れない強い力を感じるのでしょう。

その時代の文化状況におけるアンノウン・テリトリーに向かって突き進んでいった人たちが時代を切り開いたし、音楽を深化させてきた。だけどそういう力は、電子音楽に限っても80年代以降なくなってしまうのね。知性に置き換え体系化することでアカデミックな環境ができあがる。今でこそ電子音楽のアカデミズムとか言うけど、それは80年代に整理されたものでしかない。仮に電子音楽史というものがあるとしても、それを一本の川として見ることをやめて人と人の繋がりとして見ると、同じ時期に同じようなことをやっていた人が恐ろしい数ほどいるんです。例えばシュトックハウゼンと似たことをやっている人はたくさんいたし、ただその中でシュトックハウゼンは社会的に成功した。けれど必ずしもシュトックハウゼンだけが素晴らしいとは、私は全然思わない。

──電子音楽の黎明期というのは方法論の音楽でしたね。たとえば具体的な周波数を重ねてある音を合成するというような、ある目的へと到達すべき音楽だった。しかし整理されていなかったりするから、得体の知れないものもたくさん出てくる。そういう裾野の広さが電子音楽の豊かさを作っていたと思うんです。

恩田 もちろん理知的な方向に向けて構築し理性化していくことも、音楽の深化に役立っていたはずです。だからいくつかのベクトルが重なり合って強い力を生んでいたんでしょうね。

──自分がそういった電子音楽の作曲家の系譜にあるという意識はありますか。

恩田 今は明確にあります。それはさっき言ったように歴史的な体系という意味ではなくて、人と人との繋がりの中でのことだけど。私がジョン・アップルトンと二年間一緒に過ごしているのもそうですね。研究室で莫大な資料や音源を漁りまくり、分からないことがあればジョンやチャールズ・ドッジと話をする。自分が個と個の繋がりの中に存在しているということを強く感じるし、何か大きなものに触れている感覚がある。

鏡としての作品

──アルバム『don't say anything』はある写真にインスパイアされたと聞きましたが。

恩田 ピエール・ルイスという19世紀末にパリで詩人として名を馳せていた人がいました──アリフレッド・ジャリとだいたい同じ世代ですね。SMやスカトロジーといった、異端文学を書いていた。しかし他方で、人に全く知られることなく莫大な量のポルノ写真を撮りためていたんです。自分が関係を持った莫大な数の女を全て写真に収めて文章入りのスクラップを作っていた。

──その写真とはどのように出会ったんですか。

恩田 たまたまパリでアート・ポルノ写真ばかりを扱う写真屋があって、そこに一時入り浸っていたんです。店内はその手の写真が山高く積まれていて、巨大なゴミ捨て場のように過去の莫大な記憶が堆積している。そこで何日も過ごすわけです。ほとんどがクズなんだけど、素晴らしいものがクズの中からふと現れることがあって、フランスの雑誌に彼の写真が特集されていた。それを見た瞬間、何かを感じたんでしょうね、買って帰りました。

写真からは、ピエール・ルイスの持っていた狂気と紙一重のパッションを感じる。何か凄い作品を見たとき、人は作家の視点でものを見させられてしまうというか、作品が鏡のように作用する瞬間があるでしょう。彼の写真が鏡になり、私は自分の中にある狂気と紙一重のパッションを見たのだと思う。それで突き動かされるようにして、訳も分からず何かを作り始めたら、『don't say anything』ができあがったんです。

──タイトルはどうやってつけたのですか。

恩田 ピエール・ルイスのアティテュードが "don't say anything" だと思ったのね。言葉に表さずに、自分のオブセッションをそのまま写真に定着させようとする。エロティックな瞬間とは取り憑かれるものであって、理屈ではないよね。得体の知れないものに触れたときの胸の高まりに寄り添うようにして何かを作ってみたかった、そして実際にそうしたんだと思う。私がピエール・ルイスの作品を鏡のようにして自分の何かを定着させたように、私の作品を鏡にして聴く人が何か別のものを想像してくれたらいいと思う。鏡が鏡自身を映さないように、作品ができた瞬間から私という存在はどうでもよくなるんです。カセットのソロ作品にしても、主体的に歩いて録音したマテリアルがコラージュ化され再構成されて他者に開かれた場所を作り出すことで、録音した主体性は放棄される。パーソナルな表現であると同時に、個人性を突き抜けて他者と共有できるものを私は作りたい。

9・11とアーティスト

恩田 自分にとってはNYにいることが一番心地よいんです。60年代から様々な文化に関わってきた人々が以前と同じようにそこで生活し、創作活動を続けている。各世代の記憶が、剥き出しになった地層のようにNYという街に散在している。そこが東京と違う。東京は戦後、自分たちの生活を表面的に変えて、過去の記憶をとにかく消し去ろうとしてきた。私は特に80年代を生きてきて、この文化とは相容れない何かを背負っていると感じてきました。ポストモダン的に文化が更新されていく方が私にとっては異常です。

──小さなコミュニティに関心があるとおっしゃっていましたね。

恩田 グローバルとかインターナショナルと言ったってウソくさいでしょう(笑)。

──9月11日はNYにいらっしゃったんですか。『STUDIO VOICE』誌で恩田さんと編集者の松村さんが構成している連載「personal vinyl cuts」にも9月11日の影響はかなり色濃く見えていましたね。

恩田 その時はニューハンプシャーにいました。あれが起こった瞬間、私は動くべきだと思った。ああいうときには、ちゃんと言葉に置き換えて状況を把握していくことも必要です。僕も本能的に動いたし、書く人も本能的に書いた。その反響は大きいものでした。

──その後の生活に影響はありますか。

恩田 9月11日以降に関しては、NYに住んでいる人の方が冷静なのね。もともとリベラルな人が大半を占めるし、状況に対して冷静な反応ができている。ニューハンプシャーはアメリカの中でも保守的な地域で、そちらにいる方が怖かった。一般的アメリカ人の感覚というのが剥き出しになる。

あの事件が起こったことで、誰しもが自分の考え、スタンスを明確にせざるを得なかった。あれで得をしたのは、ものすごい右派か左派の人たちだけです。だけど、本当に真剣に何かをしているアーティストにとってはむしろやりやすい状況が生まれたと思う。アメリカはバブルだったけど、あの事件によってバブル臭さが消えたんですね。具体的にお金も動かなくなるし、人も本当に必要なもの以外は求めなくなる。アーティストも取捨選択されるよね。中途半端なアティテュードでやっていたアーティストは活動を継続することができなくなった。もともとNYのアーティストはコミュニティ・センスが強いんだけど、バブルによってそういう横の連帯が失われていたんだよね。しかし過酷な状況の中では助け合いがないとやっていけない。あの事件をきっかけにコミュニティ感覚が戻ってきて、アーティスト活動はしやすくなった。だから必ずしも悪いことだけではなかったですね。

(7月23日 初台INTER COMMUNICATION CENTERにて)

『図書新聞』2002年8月10日号、第2593号より転載


Last updated: September 17, 2002